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うなぎ雑学


箱提灯


宝暦(1751〜1764)以降
「菊の御紋」をぶらさげて、当時禁止されていた「夜間の通行」を行い、諸国の番所や旅籠、船場でも順番など待たずに最優先で通行できるウナギ達がおりました。

出雲の中海(島根県松江市)では宝暦年間に突如うなぎが豊漁となり、松江の商人であり安来の網元でもある松本左右門という人物がこのうなぎを大阪まで運ぶ手段を考えました。

左右門は松江藩奉行と安来の庄屋に届出をし、それぞれの許可書をもらうことができ、他国を通ってうなぎを大阪まで運ぶ事を事務上は可能にしました。
しかし、夏の暑い盛りに徒歩で山道を登り大阪までの長い距離を旅する活鰻輸送はうなぎが死んでしまうので不可能でした。

そこで左右門は京都の聖護院宮家に献金をし、宮家の菊花の御紋と聖護院家御用達と書かれた「箱提灯」と「小旗」を授かる事ができ、そのおかげで道中の優先権や夜間通行の権利を行使する事ができるようになりました。

箱提灯をうなぎを担いだ天秤棒にぶら下げて、涼しくなった夕刻からの夜間通行を行い、番屋、旅籠、船、などのすべての順番を待たずに最優先で通行できるため大阪までの長旅をうなぎを殺さずに輸送する事にとうとう成功しました。

輸送方法は、胴丸籠(どうまるかご)に餌を吐かせたうなぎを七貫目(約26s)いれ、屈強な人足に担がせます。
出雲街道を通り、川や用意させた溜め水にうなぎを籠ごと漬けては弱れせないように勝山(岡山県真庭市)まで運び、そこから川舟で岡山港まで運び、岡山港から大阪までは生簀船(いけすぶね)に乗り換えて、約二週間かけて輸送しました。
一回の道中では一組20〜30人で組まれ、それを数組編成し往復三十日の行程を繰り返されていました。
活鰻輸送昔の絵葉書いくら豊漁で元の値段が安くても、人足の給金やその他の経費から考えても非常に高いうなぎになった事は推測されます。
その後明治三十四年頃から天秤棒が大八車に変わり明治四十一年には鉄道輸送へと変わりました。

そして昭和九年の中海の防波堤工事が完成した頃から、赤潮が発生しだし急激に中海、宍道湖のうなぎの漁獲量は減ってしまいました。


      参考文献  大田直行著「出雲新風土記」




現在の聖護院門跡様に確認をしたところ、
江戸時代頃の聖護院宮は今では考えられないほどの権威があり、現在でも「聖護院宮御用達と御紋」の札は確認されており、事実であったと考えてよいとの事です。
【門跡とは、法王(出家された天皇)が、住まわれた場所でその経済力や政治力は大変大きかったそうです】

箱提灯
この提灯は復元した「箱提灯」ですが、書かれている菊の御紋も天皇家、宮家とは、わざと変えて省略し復元致しました。
聖護院様のご家紋や御用達のお名前も許可が必要ですので、使用は控えております。

菊法螺紋
江戸時代の提灯は商人などが宮家や武家の御用達となり御家紋などを使う場合でも、わざと片方を薄墨で書くぐらい慎重であったそうです。

 聖護院門跡様のお心遣いで、復元した箱提灯への使用は許可を頂きませんでしたが 、江戸中期より御家紋としてご使用されている「菊法螺紋」を参考までにと頂きま した。 



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