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〒411-0907 静岡県駿東郡清水町伏見239−3








うなぎ雑学






西暦 元号 主な国内事情 食生活史 蒲焼の登場する文献 関東醤油史
1600 慶長五 関ヶ原の戦い。東海道に五十三宿を確定 江戸鈴ケ森八幡神社前 茶見世が登場
1603 徳川家康、江戸幕府を開く
1612 十七 宮本武蔵、巌流島にて佐々木小次郎を破る。 屠牛を禁止 (凶作の為)
1615 元和元 大阪夏の陣 武家諸法度、禁中並公家諸法度制定 明の商船が紀伊に来航し砂糖を販売する
1616 家康(74歳)没 銚子の田中玄白の中祖が溜醤油を造り始める
1619 菱垣廻船開始 関西醤油が市場を独占
1623   琉球で初めて砂糖が生産される
1624 寛永元   武家の客饗応の制限がなされ、珍客・婚礼以外の時は、二汁五菜、酒三献、肴二種とされた
1625   江戸日本橋に、魚物会所・魚市場が開設される
1627   朝鮮から琉球を経て西瓜の種が薩摩に伝わる
1634 十一   曲直瀬玄朔著「日用食性」《鰻の料理法も》
1641 十八 オランダ商館 出島に移動 前年の暮れから、諸国で飢饉。給米銭が支給され家門の饗応も二汁五菜に制限される
1642 十九 全国的な飢饉のため米価が高騰し、給米銭の支給・粥の施行がなされた。また、農民の主食は雑穀とし、温飩・饅頭・索麺・蕎麦・豆腐等の製造・販売が禁止され南蛮菓子の売買も禁止された  百姓に米の常食を禁止
1643 二十 田畑の永代売買を禁止 「料理物語」《鰻の料理法も》
1645 正保二   播磨赤穂藩で塩田の開発が始まる。紀伊広村の浜口儀兵衛が銚子に移住して醤油を造り始めた
1657 明暦三 明暦の大火=振袖火事 明暦の大火後、浅草金竜山の門前に茶飯・豆腐汁・煮染・大豆等を整え奈良茶と称して売る店ができ、江戸市中に知られた
1659 万治二   浅井了意(松雲)著「東海道名所記」 《挿絵に大皿に盛った丸のままの鰻の串刺しの絵》
1661 寛文元   江戸市中の茶屋・煮売屋の十八時以降の夜間営業を禁止。
鰻の蒲焼きが鶴岡八幡宮の前の茶屋で売られた 
野田の高梨兵左衛門が醤油を造り始めた
1662   野田の茂木七左衛門が未醤を造り始めた
1663   幕臣・大名の饗応の奢侈を禁止し、三汁十菜もしくは二汁七菜を限度とした
1664   江戸で、けんどん蕎麦切りが始まる
1665   調理に用いる魚鳥・蔬菜の販売季節を規制し、また、古い生鰹を新しく見せて売ることを禁止した
1673 延宝元 江戸日本橋で越後屋(三越の前身)が開店 江戸浅草で正直蕎麦始まる
1675   春、全国的に飢饉となり、江戸谷中で米五百俵を、京北野松原・四条河原で粥・米・銭を施行
1681 天和元   この頃江戸の名物として、日本橋塩瀬の饅頭、糀町のふのやき、池の端のねん安煎餅、芝の陣三官糖飴、飯田町壷屋の饂飩などが知られる
1682 江戸大火(お七の火事)  
1683   時価による魚の値段が高騰したため、献上の魚類を含め、全国的に値上がりを禁止した
1684 貞享元   この頃より江戸大森で海苔を作り始める
黒川玄逸著「雍州府志」《蒲焼の名前の由来も》
1686   野菜類初物禁止令(大陰暦)
1687 生類憐みの令 食料用として、魚・鳥・亀・鶴の飼育・販売を禁止した
1688 元禄元
1689   五節供以外で食膳に酒を出すことを禁止
1695   平野必大著「本朝食鑑」《鰻料理の宇治麻呂について》
1699 十二 旗本に倹約令、宴会では二汁五菜、後一種までとし、乱酔が禁止された。また、江戸では、防火のため煮売りの内、夜間の辻売り、荷い売りを禁止
1700 十三 徳川光圀(73歳)没 林鴻作著「産毛」《挿絵に鰻さきうり、かばやきが画かれている》
1701 十四 浅野長矩が殿中でおこした刃傷事件 米穀欠乏のため飲酒が制限され、婚儀や重要な慶事以外の酒宴は禁止。慶賀の贈物も酒ではなく樽代とした
1703 十六   秀松軒著「松の葉」《?》
1706 宝永三   錦文流著「熊谷女網笠」《物語》
1709   鳥類・鰻・鯰・鰌の売買が解禁となる
1711 正徳元   江戸両国橋東詰の松屋三左衛門が飛団子を考案
1714   四条家高島著「当流改正節用料理大全」《献立》
1715   著者不明「艷道通鑑」《京都の三条縄手の露天で鰻の蒲焼を売るとある》
1716 享保元 吉宗の享保の改革(〜45)  
1717 大岡越前守(大岡忠相)、江戸町奉行に就任  
1718 鳥類減少のため、向こう三年間は鶴・白鳥・雁・鳧を贈答・食用とすることを禁止 浅草寺内の餅店の餅を伝法院僧正が浅草餅と命名
1720 江戸町火消しいろは組を設置 鳥類の贈答が自由になる
1723   山岡元隣著「増補食物和歌本草」《?》
1728 十三    
1732 十七 享保の大飢饉(西日本の虫害) 嘯夕軒宋堅著「料理網目調味抄」《蒲焼の説明》
1733 十八   菊岡沾涼著「本朝世事綺談表題、近代世事談」《蒲焼の名前の由来》
1735 二十   青木昆陽、吹上苑での甘藷試植に成功し、救荒食物として担当奉行に施与以後薩摩芋として徐々に広まる
  享保年間 近藤清春筆「江戸名所百人一首」に深川八幡宮で蒲焼と酒を売る絵
1741 寛保 十月〜翌三月までの重要な宴会には、雁・鴨を用いた饗膳が許可される。

魚鳥類・野菜の売買期日を定め、初物売りの利を抑制
1742   魚鳥類初物禁止令(大陰暦)
1743   甘藷栽培を奨励
1744 延享元   この頃江戸の名物として、竹村の煎餅、回向院前の淡雪、深川いせやの笊蕎麦、湯島の油揚げなどが知られた
1751 宝暦元   この頃江戸では、水茶屋葭簀、吉原五十軒編笠茶屋、浅草二十軒茶屋あんどう、じがみ屋などが知られる
1756   長門府中の永富鳳兄弟が砂糖を製造 
西村重長筆「絵本江戸土産」に鰻を売る船の絵
1757   江戸真崎稲荷周辺に、田楽茶屋が数軒でき繁盛する
1763 十三   伊勢貞丈著「貞丈雑記」《宇治丸の説明》
1764 明和元   野田の茂木七郎右衛門が高梨兵左衛門と合同で醤油を造りはじめる
1765   この頃江戸に料理茶屋がうまれた(蜘蛛の糸説) 浪花禿箒子著「新撰会席しつほく趣向帳」《献立》
1766   平井満右衛門が江戸深川洲崎で、塩焼を始めたことにより人が集まり、大紋やという料理屋ができる
1771   東埔塞瓜の小さいものを唐茄子と称し各地に広まる。江戸で阿多福餅が売り出される『卓袱会席趣向帳』
1772 安永元 田沼意次老中になる
1774   風来山人著「里のおだ巻」《江戸前鰻と旅鰻》
1775   野田の大塚、杉崎、竹本、田中、の各家が醤油を造りはじめる
1776   聴霰子著「新撰献立部類集、上、下」《献立》
1779 平賀源内没(52歳) 大田覃著「一話一言」《?》
1781 天明元   二鐘亭半山著「見太京物語り」《蒲焼の関西風の中傷》
1782 天明の大飢饉始まる  
1784 田沼意知の暗殺 田信著「卓子式古式長崎料理」《鰻料理》
    江戸浅草・心月院門前の与市が、菜(とこ)ろねの根を割麦のようにして食し、また葛のように製し、食物にも糊にも用いられる工夫をしたという 
根岸守信著「耳袋」 器土堂著「万宝料理秘密箱」(1785又は1800)《蒲焼の製法》
1787 松平定信、老中になり、寛政の改革始まる(〜93)火付盗賊改方、長谷川平蔵 京伝著「通信総籬」《物語》 
1789 寛政元 棄捐令を発令 谷風、小野川、横綱の免許をえる 江北雲太郎著「甘藷百珍」《献立》 
1792   安房嶺岡牧場でバター(白牛酪)が製造される 
1794   洋学者がオランダ正月を祝い、西洋料理を食す 
1795 長谷川平蔵(50歳)没   
1796   バター(白牛酪)が発売される 
1797   藍江著「郭通遊子」《物語》 
1799 十一 防火風紀の面から町の煮売商・荷い屋台の煮売、夜間の蕎麦切売などを規制。江戸王子村の料理屋、海老や・扇屋が開店 
1801 享和元 この頃から江戸では、山谷町八百屋善四郎の八百善、深川土橋の平清、下谷龍泉寺町の駐春亭が開店し、化政期にかけて繁盛する。

醍醐散人著「料理早指南」《献立》 
1802 浅野弥兵衛著「新撰包丁悌」《献立》 
1803   東雅著「素人包丁」《鰻の料理法》  
杉野権兵衛著「名飯部類」《関西風のまむしの製法》 
1804 文化元 江戸では、うなぎ飯が始められ、深川六間堀に松ずしができる。また、大阪では、かすてら焼、橋々の豆茶屋が繁盛する 
1809   和製の砂糖が菜種屋や砂糖屋で売り出され、江戸市中の菓子類に使用されるようになった

式亭三馬著「浮世風呂」(1809〜1813)《蒲焼の東西の比較》 
1815 十二   山東京伝著「骨董集」(1813〜1815)《蒲焼の名前の由来》 
高田松屋著「松屋筆記」《蒲焼の名前の由来》 
1817 十四   喜多村節信著「瓦礫雑考」《蒲焼の名前の由来》 
大田覃著「南畝莠言」《鰻の薬用について》 
1818 文政元 末年頃、江戸風の握り鮨が始まる

大田覃著「奴師労之」《長崎の鰻》  
「江戸買物案内」(1818〜1829)《鰻屋の屋号と所在地》 
1820 砂糖の取り引きが自由になる。江戸不忍池の南に、茶屋・料理屋が建ち並び賑わうが、天保年間には取り払われる 
1821   野田の茂木房五郎が醤油を造り始める 
塙保己一著「大草家料理書」《宇治丸の説明》 
1822   野田の河野権兵衛、茂木勇右衛門が醤油を造り始める 
1823 大田蜀山人(75)没   
1824   志賀忍著「理斎随筆」《蒲焼への中傷文》 
1828 十一 シーボルト事件   
1829 十二 松平定信(72歳)没。 野田醤油の高梨兵左衛門、幕府御用達になる 
厭離斉宗知著「遊歴雑記」《蒲焼の製法》 
1830 十三   喜多村節信著「嬉遊笑覧」《蒲焼の歴史》 
1832 天保三 吉原の大火 鼠小僧処刑   
1833 天保の大飢餓始まる(〜39) 城北百拙老人著「世のすがた」《蒲焼屋の始めについて》 
1835   江戸の葉茶屋山本嘉兵衛が玉露茶を創製 
1836   燕石著「神代のなごり」《蒲焼の名前の由来》 
1837   大我老圃著「天保佳話」《土用の丑と鰻の効用》 
1838   野田醤油の亀甲万印(茂木)、幕府御用達になる 
1841 十二 水野忠邦、天保の改革を始まる   
1845 弘化二   江戸では、「丸山名物まるまるだんよ」と詠われた、「まるぼうろ」という菓子が売り出された 
1846   この頃、江戸の流行物として、はじけまめ・島屋だんよ・稲荷ずしが知られる 
1848   久松裕之著「近世事物考」《当時と昔の蒲焼の違い》 
1853 嘉永六   斉藤彦磨著「傍廂」《蒲焼の名前の由来》 
喜多川守貞著「守貞漫稿」《蒲焼の名前のの由来や鰻専門店の紹介、値段や調理法の関西との比較、》 
1855 安政の大地震 地震後、江戸池の端の弁財天境内にあった料理屋はすべて門外に移転させられた。この頃、紅梅焼と称する菓子が売られる 
西沢一鳳著「皇都午睡」《宇治丸とその値段のエピソード》 
1856 アメリカ総領事ハリス下田に着任 函館で外国人に牛肉の供給を許可 久須美祐雋「浪花の風」《?》 
1863 薩英戦争。騎兵隊結成 (1848〜1859)青葱堂冬圃著「真佐喜のかつら」《鰻めしの始めとその値段》 
1864 元治元 池田屋騒動 幕府より、野田醤油の亀甲万、上十、木白、銚子醤油の、ヒゲタ、山サ、山十、扇サ、の七印が最上醤油として名称と価格の維持をゆるされた 
1865  二 宮川政運著「浴事百工起源」《鰻飯の始まりについて》
1866 慶応二 家茂(21歳)没。薩長同盟。農民一揆 横浜・江戸に弁当屋や洋食店(西洋料理店)が開業 
1868 明治元 鳥羽伏見の役(1月)。戊辰戦争の開始(〜69)彰義隊の戦い(5月)。慶喜水戸へ退却江戸城開城。五箇条の御誓文会津の戦い(9月)。明治維新。明治と改元  


慶長 1596-1615 元和 1615-1624 寛永 1624-1644 正保 1644-1648
慶安 1648-1652 承応 1652-1655 明暦 1655-1658 万治 1658-1661
寛文 1661-1673 延宝 1673-1681 天和 1681-1684 貞享 1684-1688
元禄 1688-1704 宝永 1704-1711 正徳 1711-1716 享保 1716-1736
元文 1736-1741 寛保 1741-1744 延享 1744-1748 寛延 1748-1751
宝暦 1751-1764 明和 1764-1772 安永 1772-1781 天明 1781-1789
寛政 1789-1801 享和 1801-1804 文化 1804-1818 文政 1818-1830
天保 1830-1844 弘化 1844-1848 嘉永 1848-1854 安政 1854-1860
万延 1860-1861 万久 1861-1864 元治 1864-1865 慶応 1865-1868


参考文献

  恒星社厚生閣発行 松井 魁著  「鰻学」 
  柴田書店発行   川上行蔵編 「料理文献解題」
  柴田書店発行   田村平治 平野正章 共編 「しょうゆの本」

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