みなさんもご存知のとうり「鰻と梅干」は、食い合わせの中でも「命に関わる」など食い合わせの代表のように知られいますが、まったくの迷信です。
衛生学や衛生知識そのものが乏しかった頃は「食中毒」が一番身近な病気や事故でしたので、呪術的にも数多くの「食い合わせ」が言われていました。
呪術的とは主に陰陽五行思想からのもので、日時や季節、色や場所も関係し、例えば「土用の丑にうなぎ」など危険を回避する為のものが主ですが(この部分は「土用の丑にうなぎを食べる訳」で詳しく説明致します) その逆に悪化させる組合せを嫌い言われていたそうです。
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昭和四年発行の「鰻通」と言う本に |
![]() 入江幹蔵著 鰻通 |
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それ以前には、明治十五年の「同食(くいあわせ)心得養生鑑」(番付表)や明治三十一年の「同食養生心得」(ちらし)などに書かれています。 左の画像は明治二十七年に発行された「食物喰合心得」という、表紙一枚に、中は一枚を折って本文4ページにした、一番簡易的な小冊子にしてあり、 【うなぎニ梅ぼしハはらいたむ】 【うなぎニ生梅ハ命にかかわる】 と、書かれています。 どうやら、梅干の登場は明治頃の医学、薬学関係が大きな原因になっているようです。 |
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しかし、その頃に現代のように全国的に「鰻と梅干」が知られていたか?と言うと、そうではありません。
下の画像は「富山の薬売り」が全国の家を訪問する時に販促の意味で持ち歩き配ったとされている「食い合わせの印刷物です。しかし書かれているのは「うなぎと酢」です。
![]() http://www.lisa.jp/~jisoku500yen/index.htm のサイト『時速500円』の管理者である 「タナカサキコ」さんからこのチラシと同じ元画像を頂き、新発見のヒントを得ました ありがとうございました |
博士の名前から判断すると 医学博士 泉伍朗先生は、一八八四年(明治一七)五月二十八日に生まれ、一九一〇年(明治四十三)十一月に京都帝国大学福岡医科大学を卒業となっていますので、薬屋さんの印刷物になるくらい有名になったのは、恐らく昭和の初めと推測しています。 (余談ですが泉伍朗先生の経歴を調べると凄い人です) この食い合せ表は現在でも比較的簡単に入手する事ができ、おそらく一番多く出回った印刷物かもしれません。 もし「鰻と梅干」の組合せが主流として考えられていたなら、ちょっと年代的に矛盾を感じますね。 先に紹介した「鰻通」という本は「うなぎ」の本の中で初めて総合的にウナギを紹介した画期的な本なのですが、もともと「鰻通」の著者 入江幹蔵氏は釣り師ですので、その分野での項目である、漁具、生態の一部は専門なのですが、この手の話は詳しくありません。私どもの先輩にあたり、江戸風俗史の先駆者、宮川曼魚氏の著書の中でも、自分の盗作である項目を指摘しています。 |
| ですから、世間のうなぎ屋などのサイトでは多く引用していますが、私個人は、特に風俗関係では信用性の低い書物の一つと考えています。 | |
明治から大正にかけてのウナギ関係の本自体が少なく、あまり確認できませんが江戸時代中期以後のいくつかの本の中に、鰻と関わる食い合わせが書かれています。
しかし、江戸時代には肝心の「鰻と梅干」の組合せは一冊も書かれていません。
「鰻学」の中で松井魁先生は
【紀州地方では古くから、梅干や酢との食い合せとして禁忌が伝わっている】と書かれています。
これもまた【古くから】が何時ごろかがまったくわかりませんが、この梅干の産地として名高い紀州地方は「梅干」の歴史の中では比較的に新しい江戸中期からの産地です。
ですから、時代的にその梅干の開発当初に起こった未熟な梅干?による事故が始まりかな?などと考えていました。
(たった一行の文章からの推測ですみません・・・)
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有名な貝原益軒の書「養生訓」にも紹介されていますので「鰻と銀杏」は当時の主流とも言える鰻との食い合せと考えていいのではないでしょうか。 |
となると、梅干との組み合わせが一地方ではなく、全国で言われ始めた時代はどんなに早くても明治以後に銀杏や酢と一緒に言われていたのではないかと推測できます。
それと、古くから言われていたという紀州地方の事と重ねて考えると、いきなり銀杏から梅干に変わったのではなく梅の青酸とくっつけて「鰻と青梅」または「鰻と未完成な梅干」が中間に入ったのではないのでしょうか
はじめにご紹介した明治時代後半の「食物喰合心得」の他にも、大正時代前半の本の中にはこの「鰻と梅」の食い合せを紹介しているものもあります。
![]() 「日用宝典」土橋正之 著 左 大正五年 右 大正八年 |
左の写真は大正五年と七年に出版された本で、色々な食い合わせや病気などの家庭医学的なもの、運気や方角などが書かれている、養生訓の大正版のような本です。 |
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| いろはで始まる、重要な食い合わせや禁忌の次に書かれている、その他の食い合わせの中では、やはり銀杏が登場し、酢に対してヤツメウナギが書かれています。 | |
「食物喰合心得」でもわかるように大正頃の短い期間ですが、この頃は「梅」(青梅)が登場しています。
「食い合わせ」そのものが科学的根拠が無い事なので、仮に梅干をワザと青梅や未完成の梅干に変えて食べたとし、毒素的に「命に関わる」という症状にするには100〜300個ほど一度に、しかも「食い合せ」ですので当然ウナギと一緒に食べなければなりません。
明治後期の「食物喰合心得」では、
【うなぎニ梅ぼしハはらいたむ】
【うなぎニ生梅ハ命にかかわる】
と二種類の組合せが同時に書かれていました。
つまり、「梅ぼし」よりも「生梅」が危険であるという認識が、当然あったという事になります。
もし無理やり強引に科学的理由をつけるならば、次のような事になります。
銀杏の場合
銀杏は古くから薬用としても使われていましたが、食べ過ぎる時に起こる食中毒を警戒していたものだと思います。
健康のときには食べ過ぎても危険は少ないのですが、栄養失調や食事が極端に偏っていたとき、食中毒が起こりやすく、特に子供を中心に多く起こっていたそうです。
近年でも戦後の食糧難の時には多くの食中毒が子供を中心に起きたという事を考えると、特に江戸時代の飢餓の時期はそれ以上の患者が繰り返されて出たことと思います
梅の場合
青梅と銀杏のイチョウの樹に生っている姿は、実際に梅が生っている姿とよく似ているのと同時に、銀杏の可食部分は梅だと果肉でなく、梅の種の中の「天神様」と呼ばれる部位ですから毒性の事を考えると、梅の果肉より天神様の方が多く含まれていますのでスッキリとつじつまがあいます。
ただ「天神様」も、青梅の場合の話で、梅干にしてしまえば毒素の素は消えます。
ただ単に、どちらも姿が似て毒素に関係するものがあると言う事だけなんですが、そのおかげで、江戸時代から言われていた「鰻と銀杏」から、「鰻と梅干」に変化した。と言う事になります
実は上の、青梅とイチョウに生っている銀杏が似ていると、数年前の夏にテレビで研究家さんに紹介されていたのにはビックリしましたが、決してその研究家さんのパクリでは無いです・・・
「ほ〜同じ考えの方も居るんだ」と嬉しく思いました
今までの事をまとめると
江戸時代には「鰻と銀杏」が鰻との食い合せで主流であった事
昭和初期(戦前)までは、「鰻と梅干」は登場しても「鰻と銀杏」「鰻と酢」がまだまだ言われていたという事
「銀杏」から「梅干」に変わる理由は、姿が似ているのと同時に食中毒になりうる毒性の素が双方に備わっていた事で容易に考えられると言う事
になりなす。
ところで、銀杏や梅干の事は推測できますが、なんで鰻との組合せでなければいけなかったんでしょうか?
江戸時代には鰻の模様によっては毒があると書かれた書物や妊婦は食していけないなど禁忌は色々と書かれてきましたが、いま一つ弱い気がします
生食での毒性も考えましたが、古来より火を通した料理方法でうなぎは食べられていたので、考えづらいきがします。
今まで、多くの専門家が書かれているように
「『河豚におこわ(赤飯)』のように粗食の梅干と贅沢品の鰻を一緒に食べるべきでは無いとする戒め」
「しょっぱい梅干によって、脂の多い鰻を食べすぎてしまう為の戒め」
などが、本当にこの組合せの理由なのでしょうか?
仮に、この定説が真実だとするならば、食い合せは「うなぎと梅干」とごく僅かな組合せの限定になり、他の大部分の組合せには通用しない事になります。
私が思うには
例えすべてには当てはまらなくても、ある程度他の組み合わせにもあてはまらないと、答えにはならないはずです。 しかも「うなぎと梅干」と「天ぷらとスイカ」ぐらいが現在でも残り、言われ続けている事自体が不思議です。
俗説の一つになりますが、今回ある方から面白い説として隠語による組合せをお聞きしました。
残念ながら、子ども達も見てくれているサイトですので詳しくは紹介はしませんが着眼点が面白いです。その説なら書物などに残りにくいので案外ありえるかな?などとも思っいましたが、やはり当てはまらない事が多すぎて答えにはなりません。